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日経新連載「ミチクサ先生」が楽しみ♪ PART6


日経連載の伊集院 静氏による「ミチクサ先生」は、今日が第154回目。

若き日の漱石の日々を伊集院氏は「ミチクサ」と呼んでいますが、今日まで連載を読んできて、なるほどなと思います。

若き日の漱石が歩んだ「ミチクサ」については、これはやはりどうしても正岡子規との親交抜きでは語れないのは言うまでもありませんね。伊集院氏もこの二人の天才の若き日の交友に、これまで多く紙面を費やしています。

ところで俳句ということであれば、日本人なら松尾芭蕉を知らぬ人はいませんね。同じく与謝蕪村も同様でしょう。時代が新しくなって明治期ということであれば、どうしても正岡子規をあげぬわけにはいきません。

芭蕉といえば「古池や蛙飛び込む水の音」、蕪村なら「菜の花や月は東に日は西に」の句が名前と一緒に浮かんで来るように、子規であれば「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」ということになります。

今日の「ミチクサ先生」は、この子規の名を永遠たらしめた「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の発句の場面がみごとに描写されていました。

この時すでに子規は結核菌によって体の奥深くまで蝕まれていて、おそらく子規も自分には残された時間が限られていることがわかっていたのでしょう。東京でやらねばならぬことがあると、母親や妹、そして漱石の必死の説得にも応じず、帰郷し療養していた故郷松山(漱石は松山中学の教師としてこの地に赴任していた)を発っています。

その途中、神戸、大阪、奈良、京都と旅をしている子規。旅といってもこの当時は、どうしても道中歩くということになってしまう。腰の痛みのために旅を続けることが出来なくなった子規は、奈良で宿を取り数日逗留することにした。

伊集院氏は、子規が発句したのはその宿の一室で所望した御所柿を口にしたときのことであると、このように描写しています。


美味い、と子規が声をあげた時、釣鐘を打ったような音色が聞こえた。

「どこの鐘ぞな?」

「東大寺ですね」

「ふぅ~ん」


調べてみると、子規が故郷から奈良、京都を旅して東京へ向かったのは明治28年のこと。明治25年に日本新聞社に入社し、日清戦争の従軍記者として中国に赴いたのが前年の27年のこと。日本へ帰って来るときの船中で、激しい吐血をしたことは、おそらく子規の手記に残されていたからでしょう。「ミチクサ先生」でも書かれていましたし、「坂の上の雲」でも描写されていました。

すでにこの時子規の体を蝕む結核菌は肺はおろか脊髄にまで達していて、カリエスを発症していたために、歩くことも困難になりつつあったことが想像されます。

いわば、自分に残された生を見極めた時に発句したのが、かの句であったということになるのでしょう。


ところで「ミチクサ先生」の連載は2月20日で終了し、新連載が始まるということです。伊集院氏が突然の病で倒れられ、執筆が困難と報じられていますから、若き日の漱石の「ミチクサ」が途中のまま終了するのは残念の極みですが、子規の最後を見送ることになる「ミチクサ先生」を見ずにすむのは、なんとなくほっとした心持ちではあります。

伊集院静氏が健康を一日でも早く回復されることを心より祈念してやみません。




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