上戸と下戸 PART3 「秀吉と家康」
信長、秀吉、家康、光秀……。苗字を書かなくても名前だけでそれが誰であるかわかる人物の筆頭にあげることができる四人の戦国武将に、酒にまつわるエピソードが残っていないのは、この四人が実は下戸であったからではないかと俄か歴史学者(←私のことです)は考えるのですが、皆さんはいかが思われますか。
信長と光秀については昨日検証してみました。信長と光秀は下戸なるがゆえに損をしたというのが、私なりの結論です。
では秀吉と家康はどうか?
織田がつき 羽柴がこねし 天下餅
すわりしままに 食うは徳川
という狂歌が残っています。詠み人知らずと言われているこの歌、名が知れればおそらく捕縛され打ち首にされることは想像に難くありませんから、作者は意図的に名を隠したのに違いありません。しかし、よくできた歌ですね。戦国時代の終わりから江戸時代を迎えるまでを、三十一文字(みそひともじ)で見事に表している。そこで私も先の狂歌をまねて、このような歌を作ってみました。
織田が杜(も)り 羽柴醸(かも)せし 天下酒
すわりしままに 飲むは徳川
どうでしょうか。打ち首にはなりたくありませんが……。
杜氏の信長については、実は酒がからきし弱かったと、昨日取り上げました。酒宴で酒が飲めぬいら立ちもきっとあったのでしょう。突然に怒り出し愉快に酒を酌み交わす家臣を打擲したという信長は、酔っぱらって大暴れをする酒飲みより始末におえませんね。柴田勝家、丹羽長秀らの織田家重臣たちも、ただ手をこまねいて信長の勘気が、矛先を変えて自分に及ばぬよう知らぬふりを決め込むしかなかった。
「まあまあ、お館様、お平にしゃぁ~せ。明智殿が仰せのこと、なかなかにもっともでにゃーも」
あえて信長に足蹴にされるようなことをしゃあしゃあと言って出たのは、醸造人秀吉ではなかったか。信長の気質を知り尽くしていたばかりでなく、下賤の出である自分なら信長にいかように打擲されようと誰も何も思わない、むしろ愉快がる。台無しになってしまった酒宴を取り繕うことができるのは織田家中でこの秀吉ひとりと、自覚していた節があります。
さらには明智ばかりでなく柴田、丹羽らの重臣たちにも恩を売ることができるという計算も、信長が怒り出した瞬間に閃いていた。まさに用意周到な醸造人といえましょう。
さてその秀吉にまつわる逸話は数限りなくありますが、酒に関することとなるとなかなか資料も限られるようですから、秀吉もまた酒はそれほど強くなかったと断じてよさそうです。
しかし、酒席の場は決して嫌いではなかったに違いありません。酒を飲んでこそ人は本性をさらけ出すものと心得ていた。人が酒を酌み交わす場こそ戦場であるとの信念が、秀吉を天下人に押し上げたのではないか。
その秀吉も晩年になると、往年の面影もなくなったのは歴史が語る通り。死ぬ五か月前に京の醍醐寺三宝院で開いた花見では、宴席には千三百人もの女房をはべらせ、桜と酒と女を堪能したとか。花見に招かれた家康は、酒の場で本性をさらけ出してしまった老いた秀吉の姿を見て、ほくそ笑んだことでしょう。心の中でひそかにこう囁いたに違いありません。
「かような醸造人の作った酒ならば、飲めばさぞかし悪酔いをするであろうのう。しかし、くれてやるというものを貰わぬ手はないて。まあ、酒は腐るものではなし、ここは少しずつ、ゆるりゆるりとのう。その方が体にも良かろうて」
家康はこの四人の戦国武将の中でも七十三歳と最も長生きをしています。当時の薬に関する専門書である『本草綱目』や『和剤局方』を取り寄せ、自ら薬草を栽培しそれを調合して服用していたというくらいですから、健康にはひときわ注意を怠らなかった。江戸幕府の公式史書『徳川実紀』には家康が実践していた健康を保つ八か条が記録されているとか。
(一)粗食を常とする
(二)冷たいものは口にしない
(三)季節外れのものは食べない
(四)肉もほどほどに食べる
(五)体を動かす
(六)香をたく
(七)薬について学ぶ
(八)酒は「薬」として飲む
言わずもがなでありますが、最後の条文に注目してください。家康は「酒」は「薬」と考えていたのです。
同じ下戸であっても、秀吉は酒を「戦場」と考え、家康は「薬」と考えた。
う~む、この損得勘定、皆さんはどう捉えになられますでしょうや?

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