時代小説が好きPART142「遠い砲音」
時代小説作家・浅田次郎の珠玉の短編集「五郎治殿御始末」に収録されている6篇の中から、「遠い砲音」を読み返しています。
![]() 五郎治殿御始末改版 (中公文庫) [ 浅田次郎 ] |
主人公は近衛歩兵師団砲兵第3中隊長の土江彦蔵。元長門清浦藩一万石、毛利修理大夫(豊後日出藩木下家より迎えられた養子)の家臣で、50石取りのお馬回り役を務めた藩士。
新政府の陸軍中尉の任につきながらも、依然として前の主人毛利修理大夫との主従関係を断ち切れず、一人息子の長三郎とともに屋敷に残って修理大夫に仕えている。
そういう古い頭の元藩士であるから、新政府が導入した西洋定時法がどうしても馴染めない。早い話が時計の針が読めぬのである。
歩兵大隊との合同調練の日、実弾砲撃訓練の指揮を命じられた彦蔵は、歩兵の指揮を執る若き歩兵少尉と時計の針合わせを厳重に行って演習に臨んだのであったが、あろうことか突撃する歩兵の頭上に、実弾の雨を降らせてしまった。
「おまん、腹ば切れ。切れんのならわしが叩き斬っちゃる」
怒り狂う薩摩出身の砲兵大隊長を何とかなだめすかし、取りなしてくれたのは、フランスから招へいされた砲術教官のロラン大尉。
実はロラン大尉は毛利修理大夫の外国語教師として、修理大夫にフランス語を教えており、修理大夫から忠節を忘れぬ彦蔵のことをよく聞かされていたのであった。
ロラン大尉は潔く責任を取ろうとする彦蔵にこう言ったのである。
「貴官は軍人の鑑である。何となれば、軍人の本分は忠節にあり、その忠節を常日ごろからいたしおる貴官こそ、あっぱれなる近衛将校である。しかるに、その忠節を忠節とも思わず、もったいのうござるの感謝さえ致す貴官に対し、本官は最大の敬意を表したい」と。
「遅刻じゃあっ、急げ、遅刻じゃあっ」
「中隊長殿、時間は」
「11時と、ええ・・・50ミニウトか。いや、40」
「あと何ミニウトでござるかっ」
「ようわからん。ともかく急げ」
彦蔵の所属する砲兵大隊に新たな命が下った。昼の12時(彦蔵の頭で考えるところの午の刻)に時を知らせる空砲を打つ任務を担うことになったのである。
新たな任務に精を出す彦蔵に、とある日修理大夫がこう切り出す。
何とロラン大尉の帰国に同行してフランスに留学すると。
「勝ってついでに今一つ。外国での独り暮らしは心許ない。長三郎に伴をさせるつもりじゃ」
「天下人を祖と仰ぐ木下の家に生まれ、毛利の家に貰われた予は、そちの忠義に報ゆることができぬ。そちが忠心ゆえに去らぬと申すなら、予がそちから去らねばならぬ」
さらに修理大夫は涙を流しながら続ける。
「予は長三郎を弟と思うてフランスに伴う。ロラン大尉の伝を頼って、必ずや立派に西洋の学問を修めさせる・・・」と。
時代の趨勢に抗じきれず、刀を置き髻を切ったというものの、武門の矜持を捨てきれずに葛藤した維新の下級武士の姿をみごとに描いた「遠い砲音」。
「遅刻じゃあっ、遅刻じゃあっ」
依然として西洋定時に慣れぬ元長門清浦藩士・土江彦蔵が鳴らす号砲は、はるか洋上を行く毛利修理大夫の耳にはたして届いたのであろうか・・・?

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